ここ数年でマーケティングへの AI 活用が進んだ一方で、本当の意味で AI をビジネス成長につなげるための課題も見えてきました。
特に多くの企業から聞こえてくるのが、いかに経営層や関係部署の理解を得るか。マーケティング部門だけではなく、AI 活用を「全社ごと化」できるかどうかが鍵を握っています。
こうした課題に対して、実際に成果を収めている企業はどのような取り組みを進めているのでしょうか。
Google では 2023 年に、マーケティングにおける AI 活用のフレームワーク「グロース・トライアングル」を提唱して以降、多くの企業と共に推進してきました。
今回はその中の 3 社の事例から、AI 活用を進める上での共通項を探ってみましょう。
全社の対話で利益構造を分解、ライフネット生命保険
まず取り上げるのは、オンラインで生命保険を提供するライフネット生命保険株式会社です。生命保険業界のオンライン化が急速に進む中、マーケティング部門も利益目標への貢献を明確にする必要に迫られていました。
利益につながるマーケティングのために、まず優先したのは会社の経営目標とマーケティングの方向性との擦り合わせです。従来のマーケティングでは新規の契約件数を主な指標としていましたが、それが最終的な会社の利益目標に対してどれくらい貢献しているのかは、明らかにできていませんでした。
そこで、近藤良祐上級執行役員(当時、取締役執行役員)率いるマーケティング部門が主導して「エグゼクティブ・サミット」という、関連部門との対話の場を設定。会社全体の利益構造を指標レベルに分解し、各部門がどの指標に責任を持つのかを、全体で共通認識を持てるようにしました。
なお、マーケティング部門が主導でこうした動きを仕掛ける際には、会社が置かれた社会状況もうまく利用しました。2023 年に国際財務報告基準(IFRS)が導入されたことで、保険の新規契約にかかる獲得費用を保険期間全体に繰り延べて計上できるようになり、期間損益や収益性の実態をより明確に示せるようになりました。これにより、長期的な収益が見込める契約へのマーケティング費用が「投資」として評価されるようになったのです。こうした状況も追い風にしながら、マーケティング起点での企業価値の向上を目指しました。
エグゼクティブ・サミットでの対話を経て新たに決めた方針が、マーケティングで獲得した保険契約に対して、異なる「価値」を割り当てることです。契約ごとに生み出す利益は異なるため、単に契約件数を目標とするだけではなく、それぞれの契約の価値を重視して取り組む必要があると結論付けました。
この方針を踏まえて、現場業務ではマーケティングの投資対効果(ROI)の可視化に着手しました。他部署と連携し、Google 広告を主なチャネルとして、契約 1 件ごとに想定される利益額を設定するためのデータを作成。Google 広告経由での ROI を、Google アナリティクス 4 で追跡可能にしました。
また一部で「価値に基づく入札戦略」による目標広告費用対効果(ROAS)での試験的な運用を開始。過去の申し込み率や成約率、平均の契約期間といったデータを分析し、想定の「コンバージョン(CV)値」を設定しました。
結果として目標 ROAS での運用は、従来に比べて CV 値が 35% 増え、契約件数は 11% 増加しました。特にオンライン生命保険というサービス性質上、戦略的に重要な 20 代 ~ 30 代の割合が増えたことも大きな成果でした。
今後は、CV 値に対するより精緻な検証も視野に入れながら、データに基づいた戦略的なマーケティングアプローチを継続していく方針です。
AI 活用を進める、セブン‐イレブン・ジャパンの組織再編
続いて紹介するのは、株式会社セブン‐イレブン・ジャパンの事例です。近年の在宅勤務の定着や中食市場の激化に伴い、同社の店舗を取り巻く市場環境に影響が出ていました。
その中で、顧客 1 人ひとりの嗜好や行動を分析して来店を促す One to One マーケティングの起点として、「セブン-イレブンアプリ」の活用に注力してきました。アプリユーザーのデータと、ID-POS データ(顧客 ID と紐付いた購買データ)を連係させたデータ基盤を構築。また 2022 年には、アプリを「メディア」と位置付けるリテールメディア事業を立ち上げ、他社メーカーの広告をセブン-イレブンアプリに掲載するといった、コンビニとしては画期的な取り組みを行っています。
これらは過去の記事でも取り上げてきましたが、今回注目したいのは、その背景で組織をどのように再編したかです。
2022 年 3 月、従来の販売促進部を商品本部傘下のマーケティング部に再編しましたが、意外にもそれまで同社には「マーケティング」と名の付く部門はありませんでした。その後 2023 年には「マーケティング本部」を立ち上げ、商品開発を行う「商品本部」、物流網の構築を担う「QC・物流管理本部」と並ぶ柱としてマーケティングを位置付けたのです。
再編以前は、販売促進部が中心となって特定の商品をマス向けにどう宣伝するかに主眼を置いていました。また再編後も、マーケターに相当する役割を担っていたのは商品本部の商品開発担当だったため、起点となるのは商品です。「何が支持を集めているのか」「どこに改善点があるのか」を分析して開発を進めていました。
しかしマーケティング本部内にマーケティング戦略部を設立した現在は、購買データやアプリの会員データの活用基盤も整ったことで、商品、店舗だけでなく「顧客」を起点とした中長期的なマーケティング戦略の立案が可能になったのです。
以前は商品本部が次に売り出したい商品を決め、それを販売促進部が各店舗に共有していましたが、現在はデータドリブンで仮説検証を進めながら、中長期的な戦略の中で優先順位やスケジュールを決定できます。商品開発や店舗と一体となってマーケティング施策を進められるようになったのです。
創業から 50 年以上も小売ビジネスを展開してきた同社が、組織の形も変えながら新たなマーケティングや新規事業を進められた裏には、情熱を持って変革を進めた仕掛け人の存在がありました。
同社の事例では、マーケティング本部長の岡嶋則幸氏や、アプリとリテールメディアを総括する杉浦克樹氏がこれに当たります。当初は「リテールメディア」という言葉を理解してもらうだけでも難しかったところから、One to One マーケティングの重要性や、購買データやアプリ会員データが競争力の源泉になること、リテールメディアが会社の持続的な成長の支えになることなどを、粘り強く経営陣に訴え続けました。
またリテールメディアの立ち上げには、小売とはまったく異なる広告業に近い能力が求められるため、外部パートナーの力を借りることも重要です。代理店業務について広告代理店と連携したり、組織のカルチャーについて Google と勉強会を開催したりと、社内外の協力を得ながら変革のうねりを大きくしていくことで、組織の形もカルチャーも変えていったのです。
マーケティングの AI 活用を全社横断で、継続的な実験で LTV を高めた NTTドコモ
最後に紹介するのは、株式会社NTTドコモの事例です。
幅広いサービスを展開する同社では過去に、各サービスの評価基準がバラバラで、個別の KPI を追求していたことで、組織のサイロ化が進み、会社全体のビジネス成長に対して最適化ができていませんでした。
そこで 2022 年 7 月に社内カンパニー制を導入し、横断的なマーケティング組織を設立。 ライフタイムバリュー(LTV)の算出方法を統一して全社共通の指標にすることで、マーケティング戦略の全体最適を図りました。
短期的な KPI だけでなく、LTV という長期的な視点での評価の意識が高まり、既存顧客の維持や育成による顧客満足度の向上や、サービス間のクロスセル/アップセルの促進、マーケティング価値の向上といった効果が得られました。
まずはデジタル広告の改善から始めました。LTV に対する成果を定量的に測りやすく、さらに部門を超えてその知見を展開しやすいためです。
従来のデジタル広告を分析したところ、ブランドワードやリマーケティングといった顕在層へのアプローチに偏っていたことが明らかになりました。これでは顧客層が広がらず、将来的には獲得件数が頭打ちになってしまいます。
効果的に広告の配信面を広げて潜在顧客へとアプローチするために「P-MAX キャンペーン」と検索広告を運用しました。P-MAX キャンペーンは、幅広い Google の広告枠に対して、1 つのキャンペーンで網羅的に配信できる製品です。Google AI が学習をしながら自動で最適化します。その後、検索広告のマッチタイプも徐々に「インテント マッチ」に切り替え、さらに効果的な広告配信を目指しました。
LTV の高い潜在層を獲得するには、より深い CV ポイントを AI に理解してもらう必要があります。そのため「価値に基づく入札戦略」も活用しました。
その結果、顧客獲得単価(CPA)を 25% 削減しながら、獲得件数は 90% 増。またより利益につながる CV 値の高い顧客の獲得への貢献が明らかになったことで、投資額も前年比で 50% 引き上げることができました(*1)。
成功の裏には、関連する事業部への丁寧な説明がありました。NTTドコモのような大企業で新たなソリューションを導入するには、さまざまな部署との調整が必要です。
そこでまずは、最終的な事業責任や投資判断を担う事業部サイドに対して、想定される収益へのインパクトを、シミュレーションなどを基に丁寧に説明をしました。
同時に、新しい技術やツールに興味を持つ現場のメンバーに直接声をかけ、小規模なプロジェクトチームを組成。細かい調整よりもまず実装して、人間がやるべきところ、AI に任せるところを分けてスピーディに検証することを優先しました。
横断組織を立ち上げ、事業部のデジタルマーケティングを支援していくことで、高速で PDCA を回しながら成果につなげた好例です。
AI 活用を「全社ごと」化する 3 つのポイント
冒頭で書いた通り、マーケティングでの AI 活用を通じてビジネス成長を実現する鍵は、「全社ごと化」です。
今回の 3 社に代表されるように、過去さまざまな企業との取り組みを進める中で、この全社ごと化に成功している企業には、3 つの共通項が見えてきました。
まず 1 つは「対話の場」の設定です。ビジネス目標とマーケティング目標が向かう先を一致させ、マーケティング投資の妥当性を組織全体に理解してもらうためには、マーケティング部門や近接部門に閉じることなく、経営企画や財務など幅広い部署との連携が欠かせません。会社として目指す最終的なビジネス目標と、各部門が設定している目標との結びつきを整理し、全社で共通の目標を持つことは、ライフネット生命の「エグゼクティブ・サミット」のように、マーケティング部から働きかけて対話の場を設定することでこそ、実現できるものです。
全社ごと化のポイント 2 つめは「仕掛け人」の存在です。紹介したセブン‐イレブン・ジャパンに限らず、AI 活用を進めようとする過程では、組織の壁に直面することが多いでしょう。だからこそ、上で挙げた対話はもちろん、それらを主導する、明確なビジョンを持って AI 活用の必要性を粘り強く訴え続けられる人物の存在が重要です。これは何も、上層部しか担えない役割ではありません。現場で活躍するマーケターも積極的に担うべき役割です。
そして 3 つ目は「AI への理解と継続的な実験」です。AI 活用は、一朝一夕で実を結ぶものではありません。質の高いデータやそれに基づく学習を通じて改善を続けていくことが重要です。最初は小さくからでも AI 活用を始め、高速で PDCA サイクルを回しながら成果が出る条件を見つけることで、効率化にとどまらない新たな可能性が広がり、最終的な成長へとつながっていくのです。