近年の小売業界は、難題に直面しています。すなわち、多様化する生活者ニーズに対応して顧客満足度を上げると同時に、オペレーションも効率化しなくてはならないというジレンマを抱えているのです。
オペレーションコストの効率化と顧客体験価値の向上を両立させるためにできることとして、2023 年 3 月の記事では「顧客体験を起点としたデジタル投資」を提案しました。データドリブンで顧客体験の向上を図ることで、より本質的なオペレーション改善が可能になるだけでなく、チャネル横断での連係もしやすく、PDCA も素早く回せるようになります。
そのための一歩目は、顧客に関するきめ細やかな行動分析です。
精緻なデータの取得や分析は、EC 上では当たり前になりました。しかし、実店舗ではそう簡単ではありません。顧客がどのような経路で店舗内を回遊し、どの棚の前で立ち止まり、最終的に何をいくら購入したのかといった購買行動データは、ブラックボックスになりがちです。
実店舗でも、こうしたデータが顧客の明示的な許諾のもとに取得できれば、オンライン上での行動と重ね合わせることで、これまで断片的にしか見えていなかったヒトやモノの動きをより深く理解できるようになります。さらには、店舗内の購買行動データに基づいて、新たなマーケティング施策を展開できる可能性さえあります。
こうした課題に挑戦しているのが、ホームセンターチェーンを展開する株式会社カインズです。
同社は 2024 年前半に、Google、後述する Oriient(オリエント)と共同で実証実験を展開しました。実店舗での顧客行動データを、プライバシーに配慮しながらどう収集するかといった課題にどのように取り組んだのか、詳しく紹介します。
実店舗と EC をシームレスに —— “ IT 小売業 ” を目指すカインズ
全国に約 240 店舗を展開するカインズは、デジタルと実店舗をシームレスにつないで新たな購買体験を提供する “ IT 小売業 ” 化を掲げています。今回の取り組みもその一環です。
今回の取り組みでまず重要なのが、実店舗内での行動データを取得する方法です。カインズでは、スマートフォンアプリの「Oriient IndoorGPS」を活用しました。
Oriient は、屋内 GPS 機能を搭載した店内ガイドアプリです。アプリをインストールしたスマホを持っていれば、ビーコンや AI カメラといったハードウェアや Wi-Fi を設置せずとも、誤差 1m ほどの正確さで店舗内の位置を把握できるのが特徴です。スマホのセンサーのみで位置を計測するため、タイムラグがなく、シームレスに動きます。
Oriient は、Google Cloud のパートナーです。すでに Google Cloud を活用していたカインズでは、既存のクラウド基盤を用いてデータ収集や分析ができることから、Oriient の活用を決めました。
屋内 GPS と店内ガイドを組み合わせた「Oriient」
Oriient は位置情報の取得以外に、店内の回遊を促すためのさまざまな機能を搭載しています。
今回の事例で使用したのは、次の 3 つの機能です。
- ルート検索機能:現在地から、探している商品のある棚までの最短ルートを示す機能
- チラシ商品のお知らせ機能:チラシに掲載したおすすめ商品の近くを通った際に、ポップアップを表示し、販売促進を図る機能
- 宝探し機能:店舗マップ上に星マークをランダムに表示し、そのルートを通過すると星を集められるミニゲーム機能。星を集めることで特典を付与できる。後述の通り、今回の事例では、集めた星の数に応じて景品を渡した
3 つの機能の紹介動画はこちら
カインズでは、2024 年 2 月 28 日から 3 月 7 日にかけて、ある店舗にて、ランダムに声を掛けて同意を得た顧客 163 人を対象に、実証実験を行いました。
実験では、対象者をランダムに、グループA(コントロールグループ)とグループ B(テストグループ)の 2 つに分類。両者に Oriient をインストールした入れたスマホを持って、店内で買い物をしてもらいました。ただし、グループ B にのみ上で挙げた Oriient の 3 つの機能を任意で体験してもらい、両者の滞在時間や平均購買金額を比較しました(*1)。
なお、今回の実験にあたっては、Google とカインズが密に連携し、実験の設計は Google が、実施はカインズが担当。個人が特定できない状態のデータを Google とカインズが共同で分析しました。
グループ B のある参加者の店内回遊ルート。星は上で挙げた宝探し機能を示している
実験時はデモアプリを使用したため、ルート検索機能の対象は、チラシに掲載した商品のみ。またミニゲーム機能では、集めた星の数に応じた景品を用意しました。
曜日や時間帯による顧客層の違いを考慮し、平日と休日それぞれ 9 時 〜 16 時のピーク時間帯とそれ以降に分割して分析しました。
Oriient 活用で滞在時間・購買金額ともにアップ
たとえば店舗が家族連れで最も混み合う、休日の 9 時 〜 16 時に実験に協力してくれた 35 人(グループで体験する場合は 1 人とカウント)を対象に分析をすると、Oriient の 3 つの機能を利用したグループ B の平均滞在時間は、グループ A に比べて 39% のリフトが確認できました(*2)。サンプルは小さいものの、P 値は 5% で、100 回実験を行った場合に 95 回は滞在時間のリフトが観測できる程度の確からしさです。
また同時間帯の平均購買金額を比べると、グループ B では A に対して 223% のリフトを確認。これも P 値は 13% と、100 回の実験中 87 回はリフトが観測できる程度に確からしい数値です。
これらの結果をピークタイムの売り上げや、実験後のアンケート調査に基づくOriient 機能の利用意向率などと掛け合わせると、店舗全体の売り上げに与えるインパクトは 6% 程度と推計できました。小売業のビジネスモデルにおいて、6% は非常に大きな数値だと言えるでしょう。
さらに、顧客のエリア別の滞在時間を分析したところ、店舗レイアウトや棚割り(商品の陳列位置の決定)を最適化するためのヒントも得られました。
たとえば下図を見てください。商品エリア A と B は離れた位置にあるものの、両者の滞在時間には相関関係がありました。逆に、隣接していても、相関関係が確認できず、顧客の動線がつながっていない場合があることも見て取れます。
商品エリアごとの滞在時間の相関を示した図。エリア A を基準にした時に、数値(相関係数)が高いエリアほど相関関係が強い(全体:n=163)
このようなインサイトは、データドリブンな形で店舗のレイアウトやお客様の店舗での購買体験を考える上で重要な示唆を与えてくれます。
なお今回の実験では、平日と、休日の 16 時以降のセグメントでは、滞在時間と購買金額のリフトは確認できませんでした。今回はデモ用アプリを用いたため、検索可能なアイテム数が限られていたこと、一部の UI が英語のままであったことにより、短時間で効率的に買い物を済ませたい顧客のニーズには対応しきれていなかったことが原因として考えられます。アプリを本格導入をした場合には、より多くの商品を日本語で快適に検索できるようになるため、効果はさらに高められると予想されます。
実店舗のデータ分析で顧客単価や利益率向上へ
Oriient のようなソリューションを通じて店舗内の回遊ルートや滞在時間といったデータを顧客の明示的な許諾のもとに収集することで、店内の位置情報に基づく新しい顧客体験の創出と、店舗運営の継続的な改善が可能になります。
具体的には、レイアウトの最適化や動線設計の改善、人流の多い場所への人気商品の配置など、効果的な棚割り設計も実現しやすくなるでしょう。在庫管理の効率化や需要予測の精度向上といったオペレーション改善にもつなげられるため、最終的には顧客単価と利益率の向上に寄与します。
このような取り組みは、2 つの重要な好循環を生み出します。
1つ目は、データに基づいた購買体験と店舗運営の継続的な改善のサイクルです。 顧客の行動や購買データを分析することで、より良い購買体験を提供できるようになり、さらに顧客満足度向上につながる施策を継続的に実施できます。
そして2 つ目は、本部でのデータ分析が進むことで、販売チャネルや店舗間の連携が強まり、さらなる集客が可能になるというサイクルです。 集客数の増加は収集できるデータ量の増加にもつながり、分析の精度向上にも役立ちます。
特にカインズのような広い売り場面積を持ち、多品目を扱う店舗に来店する顧客は、探している商品を見つける手間がかかるという課題を抱えています。これに対して、デジタルとデータの力で解決を図るべく、カインズは現在、実証実験の結果を踏まえて Oriient の導入を検討しています。
さらに、収集したデータはリテールメディアとしての活用も期待できます。たとえば、顧客が特定の棚の近くを通った際に、関連商品のクーポンやタイムリーな広告を手元のアプリに表示するといった新しい購買体験を創出できます。
顧客の属性と位置情報を組み合わせることで、これまでにない形でのリアル店舗での購買体験とリテールメディアの融合が実現でき、メーカーにとっても貴重な顧客接点となることが期待できます。
カインズのような小売企業やメーカーと顧客が Win-Win-Win の関係を作るための鍵はデータです。これからのマーケターには、オンライン、オフラインの分断を越えて集まる新たなデータを、顧客と収益のためにどう活かすかという新しい発想が求められるでしょう。
広告に加え、クラウドのテクノロジーも提供する Google では、小売業界における実店舗のデジタル化を今後も支援し続けていきます。
Contributor:武藤 亮平(シニア アカウント エグゼクティブ)/ミン グエン(APACコンシューマー&マーケットインサイト・シニアマーケティングリサーチマネージャー)